丹羽文雄と四日市祭


丹羽文雄の生家・崇顕寺前の東海道沿いに建つ石碑
小説家で文化勲章を受章されている丹羽文雄は、明治37年(1904)11月22日に四日市市北浜田(現在の浜田町)で生まれました。生家は浄土真宗専修寺高田派の宗顕寺(そうけんじ)という古刹で、東海道に面し、すぐ近くには四日市祭で曳き出された浜田の大山車と北浜田のネリ(釣り物「和歌の三神」)を納めた蔵がありました。
独特のリアリズムによる風俗小説、また、生家である寺院を背景にした仏教的小説を発表し、代表作には「鮎」「厭がらせの年齢」「親鸞」などがあります。また、四日市を舞台にした「ある喪失」「豹と薔薇」「菩提樹」などは、戦前の四日市のようすを知る上で貴重な記録にもなっています。とりわけ代表的な作品のひとつといわれる「菩提樹」では、四日市祭のことが詳しく描かれていて、祭の賑やかさや楽しみにしている子どもたちの気持ちなどが伝わってきます。
「菩提樹」は、真宗高田派末寺の僧・宗珠を主人公に、丹羽文雄の父の像を描いた長編小説です。小説では舞台は丹阿弥市とされ、お寺の名前は仏応寺。丹阿弥神社の祭礼となっていますが、「浜田大山車の舞獅子」「富士の巻狩り(南浜田)」「和歌の三神(北浜田)」などが克明に描かれ、四日市祭のことであることがわかります。
その一部を抜粋して紹介します。


<<祭を楽しみにする子どもたちのようす>>
祭日が近づいていた。獅子舞の稽古が、毎夜、山門の外で、むしろを敷いて行なわれた。夜おそくまで、太鼓と笛が鳴った。町内中にひびきわたる。太鼓と笛の音に悩まされて、町の人々は祭日の興奮をかもし出している。
丹阿弥の祭日は、三日間ある。最初の一日は各町内だけの祭りで終わるのだが、二日目は、東西南北と四つに分けられた、それぞれの区域を、祭屋台がねり歩く。一区画だけでも、一日がかりであった。最終日には、市の中央部にある丹阿弥神社に奉納の意味で、各町から祭屋台が集結した。二日目、三日目は、休校になった。祭日には、丹阿弥市の近郊から三十万の人々が集まる習慣である。
良薫達は、喚声をあげて教室をとび出した。一刻も早くわが家にかえりたいのだ。学校を忘れて、祭の雰囲気にひたりたいのである。

<<浜田大山車の舞獅子のこと>>
町内の獅子舞は、都会の門づけにあらわれるような粗雑な角兵衛獅子のたぐいではなかった。舞楽の一種である。唐の太宗のときにつくられたものの流れであると聞かされていた。能楽における囃子によって舞う典雅な舞の一種である。獅子のすがたを模した布製の胴中に二人の若者がはいる。縞のあるところは、獅子の胴である。前足にあたる人が獅子の頭をかぶるのである。獅子の頭は、五、六貫の重量があった。後足になる人は、始終頭を垂れていて、両手を垂れた頭の位置にかざして、胴内から布を動かして踊るのである。獅子の頭と自然の調和を保ち、左に走り、右に回って踊るのだ。これにはうんと練習がいった。笛と太鼓を聞き分けなければならないのである。後足は、目が見えない。袋の中にはいったのも同然である。前足の人間の背中や尻につきとばされて全身で汗をかいた。本物の獅子があそびたわむれる様子を模して、踊るのだった。豪壮に、勇勁に、静かに、また急激に舞う。笛と太鼓の囃子につれて、踊るのである。

<<富士の巻狩りのこと>>
隣の町は、昔から、富士の裾野の巻狩りを町内をあげて行なっている。源頼朝には、良薫ぐらいの男の子がなる。白粉を塗り、狩衣装をつけて、馬にのった。頼朝の臣下の武将は、それぞれ狩衣装をつけて、母親や姉につきそわれて、町内をねり歩くのである。白粉をつけ、冠をいただき、武将の狩衣装に身をかざると、ふだん仲よしの友達も、急に人間が変わってしまったように見える。良薫と特に仲のよい信ちゃんは、毎年、仁田四郎に扮した。仁田四郎は、少年のあいだに人気がある。山の上からものすごい勢いで突進してくる大猪の背中にまたがった勇士である。しかも、仁田四郎はうしろ向きに大猪にまたがり、ついに大猪を仕留めた英雄である。祭日の仁田四郎は、可憐な美少年となり、よそゆきの顔をしている。良薫と暗渠をもぐった信ちゃんのようではなかった。頼朝はじめ名だたる勇将が行列をつくる前方を、富士の裾野の獣が算をみだして逃げまどうのである。猪あり、猿あり、鹿あり、兎ありの賑やかな逃走図である。町内の子供たちが、鹿や猪や猿や兎の精巧な模型をかむって、行列の前駆となった。ロマンチックな行事である。少年の夢をふんだんに盛った、祭らしい祭の一つである。

四日市祭について語る丹羽文雄(グラフ三重(昭和63年7月号より))
大猪もまじっている。三間ほどの大猪の中には、町内の若者が二人、交る交るにもぐって、めくらめっぽうに駈けていく。そのため大猪の左右には、屈強な若者がついていて、右や左に方向をまちがえると力いっぱいに押してやるのだった。

<<和歌の三神のこと>>
仏応寺の山門の前に、良薫の町の祭屋台が飾りつけを終えて、いつでもひき出せる準備が出来ていた。ねりは四台からなっている。初めの一台は、造花の桜の大木を据えた屋台であり、あと三台には、直衣姿の老人と壮年と、十二単衣の唐衣装姿の女の人形がのっていた。老人は短冊と筆を持っている。桜の屋台はひっぱるのだが、あとの三台は四人の小直衣に草履ばきの仕丁がかつぐのである。人形はそれぞれ厨子のようなものの中にはいっていて、ゆれる度に、軒に吊るした大きな鈴が鳴る仕掛けである。子供たちは、ただ眺めているだけである。祭の中にとけこむことが許されない。そのため特に良薫の町内では、獅子舞があるのかも知れないのである。獅子舞にしても、それに参加の出来るのは、限られた大人と少年だけである。


小学校(現在の浜田小学校)の同級生から“ぶんゆ”と呼ばれて、遊びまわっていた子どもの頃の四日市祭がいきいきと伝わってきます。丹羽文雄の生まれた北浜田は、釣り物と呼ばれる人形屋台の行列を四日市祭に奉納していました。「和歌の三神」をそれぞれ屋台の上に飾り、静々と担いで歩く行列だったので、子どもには理解しにくいものであったのかも知れません。一方で、隣町の南浜田は、今も伝わる「富士の巻狩り」の仮装行列を奉納していましたので、動きも激しく老若男女が参加できて、北浜田の子どもであった丹羽文雄にはうらやましく映ったのでしょうか。後に四日市祭についての談話を求められたときにも、「富士の巻狩り」のことを懐かしそうに話しています。
平成17年(2005)4月20日ご永眠。満100歳でした。

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