南方熊楠と生川鐵忠
南方熊楠
南方熊楠の生誕地に立つ胸像 |
南方熊楠(みなかたくまぐす)は、博覧強記、国際人、情熱の人として、日本を代表する人物の1人に数えられる生物学者であり民俗学者です。その人柄とさまざまなエピソードから、今も多くの人から愛されています。 慶応3年(1867)に現在の和歌山市で生まれ、上京後は大学予備門(東京大学教養課程の前身)に入学します。同窓生には夏目漱石、正岡子規、山田美妙らがいました。その後、アメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究。イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職につきました。明治33年(1900)に帰国後は、和歌山県田辺町(現田辺市)に住み、粘菌類などの採集・研究を進める一方、民俗学にも興味を抱き、『太陽』『人類学雑誌』『郷土研究』『民俗学』『旅と伝説』などの雑誌に数多くの論考を寄稿し、民俗学の草創期に柳田国男とも深く交流して影響を与えたといわれています。 熊楠が心血を注いで研究した粘菌類は、森林の中に生息する小生物ですが、明治政府の進めた神社合祀によって小集落の鎮守の森が破壊されることを憂い、明治40年頃から数年間にわたって激しい神社合祀反対運動を起こしました。 |
明治末期の神社合祀政策
ここでいう「神社合祀」とは、明治末頃に国家管理のために政府が推進した、神社の整理合併策のことをいいます。神社は「国家の宗祀」であるという当時の考え方のもと、神社の数を減らして特定の神社に公費を集中させることによって、定められた基準以上の設備や財産を備えさせ、神社の継続的な運営を確かなものにすることにありました。
複数の神社のご祭神を一つの神社に合祀したり、一つの神社の境内社にまとめて遷座させるなどして、神社の数を減らそうというものでした。
大正9年(1920)、10年を超える反対運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択されます。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになりました。これが後の自然保護運動のはしりとして、現在、再評価されています。
熊楠が神社合祀反対運動を始めた頃、この運動に賛同する者は少数派だったようです。ことに、和歌山県や三重県では合祀政策が徹底されたため、熊楠の運動も思うようには進みませんでした。
そんな時、熊楠の目にとまったのが諏訪神社24代宮司の生川鐵忠の論考でした。植物分類学の大家で東京大学教授の松村任三(1856-1928)宛てに出した熊楠の書簡とされる明治44年(1911)8月29日付文書に「かかる不条理の合祀行わるるに及び、決然その国体に害あるをいいし神官とては、伊勢四日市諏訪社の神官生川鐵忠氏一人の前後になかりしは、実にわが国のために憂うべきことと言わざるを得ず」と、全国の神官で唯一明治政府の合祀政策に異を唱えたのは生川鐵忠であったと記されています。
鐵忠はどのような意見を述べたのでしょうか。
鐵忠の意見
熊楠の残した文章を集めた全集に、鐵忠の名が数度にわたり登場します。熊楠が記した「神社合祀に関する意見(原稿)」に載る鐵忠の意見にについて、要約して紹介します。
『神社合祀に関する意見(原稿)』より
熊楠が知る限りでは、これまで神恩をいただき神社のあるおかげをもって暮らしてきた数多くの神職のうち、合祀の理不尽さを遠慮なく論じたのは、全国にただ一人いるだけである。それは、伊勢四日市の諏訪神社の社司、生川鐵忠氏である。彼は明治41年2月以降の『神社協会雑誌』にしばしば寄稿して、「神社整理の弊害」をよくわかるように繰り返し述べられ、その内容は道理にかなったものである。その要点をここに写して、三重県における合祀の弊害を列挙しよう。
熊楠が思うに、むかしから伊勢人は偽りが多いというので、架空の小説であることを明示するために『伊勢物語』という書題を設けたといわれている。まことに本家だけあって、三重県の御方々には格別の智恵がある。和歌山県で行なわれる合祀の弊害は、ことごとく生川氏の指摘しているところと異ならないが、神職の俸給を割引いて受取書を偽造させるようなものは、いまだ和歌山県では聞き及ばない。 しかし、追い追いは出てくるのであろう。 |
強引に推し進められた三重県下での合祀の実態と、歯に衣着せぬ論調に、熊楠は驚きながらも、鐵忠という同志がいることを心強く思ったに違いないことでしょう。
<戻る