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境内地内に鎮まる諸社についてご説明申し上げます。

境内に鎮まる諸社
・山津見神社
・政成稲荷社
・天神社
・戎祠
・古い記録に残る社


山津見神社


祭神
 大山祇命(オオヤマツミノミコト)
    天照大神(アマテラスオオミカミ)
    素盞鳴命(スサノオノミコト)
    大物主命(オオモノヌシノミコト)
    応神天皇(オウジンテンノウ)
    倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
    大宮能売命(オオミヤノメノミコト)
    猿田彦命(サルタヒコノミコト)
    大市比売命(オオイチヒメノミコト)
    加具都知命(カグツチノミコト)
    国常立尊(クニノトコタチノミコト)

例祭 8月第一日曜日と前日の土曜日
 

由緒
この社は当社氏子域である旧四日市・旧浜田地区の各町内にご鎮座されておりました48の社を、明治の合祀令により明治41年(1908)2月1日に当社境内へ移転合祀をいたしましたものです。社号を山津見神社といたしますのは、合祀いたしましたそのほとんどが山祇の神であったことによります。したがいまして、「山の神さん」と親しまれております。
大山祇命は大山津見とも書き、また和多志大神(ワダシノオオカミ)ともいわれております。伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)との間に生まれた神であり、大山津見とは大山に住むという意味で、山をおさめるというのがこのご神名の由来です。また、和多志大神の和多は海神の「海」の意味であり、山と海、つまり大自然とかかわりの深い神です。この神に御孫が誕生したとき、大喜びして天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々と祝ったことから、酒造りの祖神としても尊ばれております。
自然とかかわりの深い神であったことから、農耕を中心にしてきた日本では全国的に民間信仰として広く崇拝され、春先に山から下りて田の神となって田畑の仕事を助け、秋の収穫が終わると山へ帰って山の神になるとされています。この地域でも自然石に「山の神」と刻み、集落ごとにお祀りする風習が多く見られました。
このほか、神明社から天照大神、津島社から素盞鳴命、八幡社から応神天皇、稲荷社から倉稲魂命、秋葉社から加具都知命、金刀比羅社から大物主命、霊符社から国常立尊、をはじめとする神々も合祀されております。
明治12年(1879)の記録に基づき、合祀されました社名と旧鎮座地を紹介します。なお、社伝では43社を合祀したとしておりますが、この記録によれば48社(内、境内社3・合殿4)が対象となっております。町名のあとの地名は、当時の記録に載る旧字名で、字名についての詳細は別に解説します。

中町(四日市字六町) 山神社  
境町 山神社 ※境町は現在の中部・元新町・中町の一部
南新町(四日市字南浦) 山神社 ※南新町は現在の中部・元新町など
中新町(四日市字六町) 山神社 ※中新町は現在の中部・元新町・中町など
四谷新町(四日市字六町) 山神社 ※四谷新町は現在の元新町など
西町(四日市字西浦) 稲荷社 ※現在の西浦1丁目2丁目など
  山神社  
西町(四日市字二町) 山神社  
久六町(四日市字二町) 山神社 ※久六町は現在の北町・西町など
比丘尼町(四日市字八町) 山神社 ※比丘尼町は現在の元町・中部など
北町(四日市字丁の園) 山神社  
南町(四日市字八町) 山神社 ※南町は現在の中部・西新地など
  津島神社  
上新町(四日市字八町) 秋葉神社 ※上新町は現在の中部・諏訪町・元新町・沖の島町など
  山神社  
竪町(四日市字八町) 山神社 ※竪町は現在の中部・北町など
下新町(四日市字新丁向) 山神社 ※下新町は現在の元新町・沖の島町・新々町・中町・新町・北浜町など
新丁(四日市字新丁向) 山神社 ※新丁は現在の新町・新々町など
  神明神社  
  豊川稲荷神社  
  金刀比羅神社  
  霊符神社  
  津島神社  
南新丁(四日市字新丁向) 山神社 ※新丁の南部と思われるが不詳
浜町(四日市字浜北) 山神社  
北条町(四日市字浜北) 山神社  
北納屋町 山神社  
蔵町 津島神社  
中納屋町(四日市字五町) 山神社  
桶之町(四日市字五町) 山神社 ※桶之町は現在の中納屋町の一部
南納屋町(四日市字五町) 山神社  
  津島神社  
南納屋町(浜田字外起) 稲荷神社  
袋町(四日市字五町) 山神社 ※袋町は現在の相生町・蔵町・南納屋町など
高砂町(四日市字新築) 稲荷神社  
堀木(浜田字堀木) 八幡社  
外起(浜田字外起) 神明社 ※現在のJR四日市駅周辺
沖ノ島(浜田字北浜) 山之神社  
  稲荷神社  
江田町(浜田字諏訪) 山之神社 ※江田町は現在の浜田町・諏訪栄町など
北浜田東浦(浜田字葭原) 山之神社 ※現在の浜田町・中浜田町など
北浜田(浜田字葭原) 山之神社 ※現在の浜田町など
十七軒町(浜田字葭原) 山之神社 ※現在の浜田町・中浜田町など
橋南(浜田字返し堀) 山之神社 ※橋南は現在の南浜田町など
四津屋(浜田字外起) 山之神社 ※四津屋は現在の朝日町など
出屋敷(浜田字浜之洲) 山之神社 ※出屋敷は現在の昌栄町など
川原町(四日市字蒲) 山神社  
川原町(浜一色字天然) 山神社  

なお、山津見神社拝殿内には、四日市祭のネリのひとつである「御諏訪神輿」3基と他1基の神輿が安置されております。



政成稲荷社
   

祭神 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
    大宮能売命(オオミヤノメノミコト)
    猿田彦命(サルタヒコノミコト)

例祭 4月9日

由緒

願い事の成就になぞらえ「まさなりさま」として親しまれてまいりました。創始についての伝承は、浜田村の生川吉左衛門氏が嘉永6年(1853)6月に伏見稲荷神社の御霊璽を拝受して、屋敷神としてお祀りになられていたものを、万延元年(1860)2月12日に「正一位政成大明神」として当社境内に移遷されたものとされております。ただ、社地に「浦賀稲荷祠碑」とあり、そのいわれを漢文で刻んだ碑が残されていて、そこには「安政三年二月」「長門守小笠原」と記されています。これに該当する人物が安政3年(1856)から5年まで浦賀奉行を務めた旗本の小笠原長常ですが、時代的には伝承と近いものの、この碑と当稲荷社との関係は、今のところ詳らかではありません。境内には他にも稲荷社がかつてあったと伝わっておりますので、そちらと関係のあるものかもしれません。
お祀り申し上げております倉稲魂命は、宇迦之御魂命とも記され、稲荷神(イナリノカミ)として親しまれています。宇迦は食(うけ)であり、一切の食物を意味し、稲のほか五穀を司り守護する神さまです。また、商工業の発達につれて、元来の農耕神の信仰に加えて、殖産興業神、商業神、屋敷神として信仰されるようになりました。一方、大宮能売命は、宮廷の大殿内に祀られていた神祇官八神の中の一神様です。物ごとが無事に運ぶよう、うまく調整する力を持ち、その立ち振る舞いが優美で愛嬌があるとされています。これらの素養がお客様商売には欠かせないことから、旅館や市場の神として、また現代では百貨店をはじめとする商店の神として、接客業界の人々を中心に信仰を集めています。また、猿田彦命は天孫降臨の折に道案内をされた故事から、みちびきの神、出世の神、開運の神とされています。四日市は古くから市が立つ商業の町として、また宿場町として栄えてまいりましたので、地元の皆さまから厚いご信仰をいただいてまいりました。
昭和の戦災におきまして、二尺と離れぬ周囲の堀や建物が全焼したにもかかわらず、不思議にも当社の本殿だけは何ら被災がありませんでした。このため、拝殿の再建に際しまして、市内氏子の皆さまはもとより、遠く福島・富山・岡山・愛知ほか全国各地からご寄進をちょうだいし、「災難よけ・万願成就の福徳稲荷大明神“まさなりさま” 」として厚い信仰をうけております。



天神社
祭神 菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)

由緒
学問の神である菅原道真公をお祀りした社で、古くから学業精進の信仰を集めてまいりました。
残念ながら、勧請された時代や由緒はわかっていません。しかし、戦災で焼失した旧社の棟札に「奉遷宮天満宮 宝永五戊子年(1708)四月吉日」とあったとの記録がありますので、それ以前に勧請されたものと思われます。また、旧社には、伊弉冉尊(イザナミノミコト)、予母都事解之男命(ヨモタコトトケノオノミコト)、速玉之男命(ハヤタマノオノミコト)の3神もお祀りしておりました。これは、浜田地の海岸に流れ着いた熊野権現を安島に熊野神社としてお祀りしていたものを、明治41(1908)年に天神社へ合祀したものです。

縁日 毎月25日



戎祠
当社の祭神である八重事代主命はえびすと同一視されてきたことから、古くから諏訪恵比須と称えられて、ことに商業関係者から厚い信仰を受けてまいりました。
天神社の左側の小祠にお祀りしておりますえびす神の石像は地元の崇拝者から寄進され当所にお祀り申し上げております。
また、慶応元年(1865)11月に地元の豪商・田中武兵衛氏によって事代主神社を境内社として勧請したとの言い伝えもあり、古くから恵比須信仰が盛んだったことがわかります。


古い記録に残る社


「伊勢参宮名所図会」(寛政9年(1797))の絵図によりますと、当社本殿の向かって左に「みこし舎」が描かれております。これは祭礼時に用いる神輿を安置したものと思われます。
当社の神輿は古くは2基あったとの伝承があり、1基はお旅所のあった西町に安置され(弘化2年(1845)製と伝わる神輿が現存しています)、もう1基がこの図から当社境内に安置されていたのではないかと推測されます。同じく「伊勢参宮名所図会」にはその左に「八まん、天神、いなり」とあることから、八幡神社があったこともわかります。八幡神社については戦災で焼失した文書に「貞享三丙寅年(1686)三月十五日末社八幡之社頭 寄進太田善右衛門」と記したものがあったと伝わっておりますので、その時代にはすでにお祀りされていたものと思われます。このほかに古い記録によれば、文政5年(1822)に竪町の仕立屋喜十郎によって勧請された金刀比羅神社、慶応元年(1865)に田中武兵衛氏によって勧請された事代主神社、政成稲荷とは別の稲荷神社があったことがわかっていますが、現在は詳らかではありません。