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四日市開拓の歴史とともに歩んでまいりました。
当社の創祀・創建についてご説明申し上げます。

創祀の由来
伊勢参宮名所図会に描かれた諏訪神社(寛政9(1797)年)
鎌倉時代初期の建仁2年(1202)に、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっております。建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)を主祭神とし、四日市・浜田の総産土神として崇敬を集め、地域の歴史とともに歩んでまいりました。
また江戸時代以後、四日市は東海道五十三次の宿駅として賑わい、社頭が東海道に面していたこともあって、多くの旅人も道中に参拝したといわれております。



四日市と浜田の歴史とともに
東海道分間絵図(元禄3(1690)年)

旧四日市古図(寛文年間(1661~73))
当社を氏神とされる地域は、現在の三重県四日市市中部地区にあたる旧四日市と旧浜田の両地区です。
浜田は、鎌倉時代の鴨長明「夫木和歌集」に「行きわびぬいざ浜村に立ちよらん朝明過ぎては日永なりけり」と歌われた朝明郡と三重郡日永村の間にあった浜村が浜田であるとか、またこの浜村から浜田と市場(後の四日市)が生まれたとか諸説あるようです。室町期には、応永26年(1419)の「比丘尼妙運道者譲状案」文書に「はまた」の名が見え、文明2年(1470)に赤堀氏一族の田原美作守忠秀が浜田城を築城(現鵜の森神社地)後に浜田が開けたといわれています。
一方、四日市が史料に登場するのは浜田より遅く、文明5年(1473)の伊勢神宮外宮庁宣に「四ヶ市庭浦」の記述が見えるのが「四日市」の初見とされています。
このような文書から、この地域が開かれるのは1400年代以後と考えられています。その後は伊勢平野の肥沃な土地と海陸交通の利便に恵まれて、交易が盛んになり、戦国の諸将にとって重要な地と考えられるようになりました。


ご鎮座時期のいわれ
東海道名所図会に紹介された諏訪神祠(寛政9(1797)年)


旧北浜田の町衆が四日市祭に着る装束に染められた「庵に八十万」


ご鎮座の年を建仁2年(1202)とし、平成14年(2002)にはご鎮座800年奉祝記念行事を執り行いました。諏訪信仰が全国に流布する歴史においては、ごく初期に属する貴重な事例といえそうです。
これを裏付ける資料としては次のものがあります。
「建仁二年中信州諏訪上下御社をここに勧請す」【東海道名所図絵(寛政九年(1797))】
「建仁二年壬戌年従信濃国遷座奉鎮座候以来四日市浜田村為総産子不怠奉渇仰候」【天保九年(1838)文書】
「本社は今を距る六百七十七年前則建仁二年壬戌七月廿七日信濃国諏訪郡鎮座延喜式内(名神大)南方刀美神社御分霊を奉遷せしものにて即当市開拓以来の産土神なり」【明細帳(明治十二年(1879))】
これらの文献は創祀の時代から、かなり後年に記されたものであるため、歴史的には不明瞭でありました。
明治時代に宮司をつとめた生川鐵忠は、弊社の鎮座由来などを克明に調査し、「三重県神社誌」などへもその調査を報告しています。
それによると、勧請者は当地発展の礎となった初代浜田城主の田原美作守忠秀ではないかとし、鎮座の年代は応永年間(1394-1428)と推測しています。
その理由として、忠秀の父である田原孫太郎景信は上野の国赤堀から伊勢の国栗原(現在の四日市市常盤地区赤堀)に移住しており、田原家では居城のある上野国赤堀に屋敷神として諏訪明神を祀っていたため、一族の移住によって四日市の地にも諏訪明神をお祀りすることはごく自然なことであるということ。
また、田原家の家紋である「庵に八十万」を、諏訪神社では神紋の梶の葉の他に替え紋として用いてきたことをあげ、「ここに御分祀申し上げし崇敬者は浜田の城主俵美作守忠秀なり。創立は応永年代というを信ずべし」と自らの著書「県社諏訪神社御鎮座由来記(大正二年九月発行)」に記しています。
四日市開拓の歴史と照らし合わせても、鎌倉時代初期の当地に諏訪神社を勧請するほどの実力者がいたとは考えにくく、少なくともその年代より下ると鐵忠は考えたのではないでしょうか。ただし、田原忠秀が築城したのは、応永年間よりあとの文明年間(1469-1487)とされ、忠秀が勧請したとするのであれば、鐵忠説より、さらに後の時代(文明年間)になります。しかし、田原家(赤堀家)がこの地方(北勢地域)に進出するのは古くは文和2年(1353)まで文書で遡ることができ、通説では景信がこの地に移ったのが応永元年(1394)とされていますで、鐵忠は応永年代としたものと思われます。


近世の隆盛と明治以後の変革
明治以後に発行された絵葉書に残る当社の姿

江戸時代になると四日市は東海道の宿駅に定められ、浜田と四日市は一体の町場に発展します。また、本能寺の変の顛末から徳川家康ゆかりの地と考えられたためか天領となり、享保9年(1724)から享和元年(1801)までは大和郡山藩領となるものの、その後天領に復しました。
当社は東海道に面していたことから、道中の旅人も多く参詣し、「伊勢参宮名所図会」「東海道名所図会」にも街道の名所として紹介されるようになります。また、近世初頭が嚆矢と考えられている「四日市祭」(当時は「諏訪明神祭」と称えられていたようです)は、街道屈指の殷賑さを誇る祭礼として近郷近在の見物客を集め、当社の名を広めました。
往時は「正一位諏訪大明神」と呼ばれていましたが、この神位は卜部家から下された宗源宣旨であったため、明治の諸改革で明神号とともに廃されました。
明治以後に発行された絵葉書に残る当社の姿

さらに、神社を中心に据えた行政改革の方針によって、明治6年(1873)3月には、新しい社格制度によって県社(三重県)に列せられ、当時の行政区であった第一小区、第二小区、第三小区の郷社も兼ねることになります。
そのおりに、「市濱諏訪神社」と改称することも検討されましたが、正式に現在の名称である「諏訪神社」となりました。
また、隣接する地を明治37年(1904)に公園整備し「保光苑」と名付け、明治40年には四日市市へ移管。さらに大正5年(1916)には「諏訪公園」と改称し、現在も市民のいこいの広場として親しまれています。
このように呼称や公的な立場などは変わっても、広く信仰を集めてまいりました当社でしたが、昭和20年(1945)6月の四日市空襲で灰燼に帰します。また、翌年2月には、神道指令により神社の国家管理が廃止されるのと同時に社格制度も廃止されました。その後、昭和26年(1951)には、崇敬者のみなさまの厚い御志により、本殿等再興のための御用材奉曳式や上棟式も華々しく、念願の再建がなり、順次境内の整備もなされ現容が整いました。さらに平成14年(2002)には御鎮座800年祭を賑々しくかつ厳かに執り行い、御神馬像が奉献されております。